episode 003 クリスタルプリンセス  2009.07.14掲載

夏の午後。

大海原に歓声が響いてた。

ともすれば船酔いを誘発しそうな波の高さ。

けれど「イルカウォッチング」の乗客は今

船酔どころではなかった。

お目当てのイルカ達が

大挙して船に「ごあいさつ」にやって来ていた。

船と競争するもの

まるで先導するように船の前を泳ぐもの

何頭かはジャンプを披露していた。

「イルカにも色々あるんですね。まだらのやつとか。みんな同じ種類なんですよね?」

男性客の一人が

ガイドのおじさんに話しかけた。

「そうです。みんなバンドウイルカですよ。腹の白いのが若いイルカで、まだら模様のは人間でいうシミみたいなもんで、若くないイルカですよ」

おじさんは見た目は若いが今年70歳。

定年後、ガイドとして息子のこの仕事を手伝っている。

「お客さんは、銀のイルカの話は知ってますか?」

おじさんが先ほどの男性に話しかけた。

「いえ、聞いた事無いですけど。そんな珍しいイルカがいるんですか?」

「もうなかば伝説なんですがね。この辺りでも私を含めて見た事があるのは3人くらい。銀のイルカと言いましたが、実際の色は何とも表現できない色で、とても美しいイルカなんですよ。仲間内では「姫」と呼んでいました。でも最後に私が見たのは50年以上前なんで、今はもう居ないでしょうけれど。私も自分の目で見なければ信じてないでしょうね」

おじさんは眼鏡をはずして拭きながら、

「今でも忘れられない想い出ですよ」

そう付け加えた。

眼鏡をゆっくりと拭くおじさんの姿は

とても感慨深げで

その想い出がとても大切であると共に

何かを置き忘れて来たかの様な印象を受けた。

 

イルカの群れは今

彼らが居る左舷から右舷へと移っていた。

乗客もそれに会わせて右舷へ移動し

左舷は彼ら二人となった。

おじさんは黙って眼鏡を拭いている。

立ち去るタイミングを

何となく失ってしまった男性客は

何となく遠くの海を眺めた。

イルカも良いけれどこういう広大な風景を目にするのも癒しがあるなと男性客は思った。

ふいに遠くの方からイルカの背びれが見えた。

すぐに見失う。

もう一度見つけても

またすぐに見失う。

海の色に溶け込んでしまうのだ。

しかし確実にこちらに向かって来ていた。

「おじさん、あれなんてイルカ?」

男性客がそのイルカがいるらしき方向を指差した。

「ん?」

おじさんが眼鏡をかけ直した瞬間

やってきたイルカが船の真横でジャンプした。

「!!」

「!!」

なんという色をしたイルカだろうか

銀色ではない

金色でもない。

色自体がなかった。

無色で際立つ透明感

そう、まるで水晶

透明であるが故に

海の蒼を映し、陽の光をプリズムのように分解し

なんとも言えない色がきらめいた。

 

イルカが滞空するほんの一瞬が

スローモーションのように彼らには映った。

しかしその透明な身体の内部に

一瞬だけ女性の姿が見えた。

何かもの言いたげな女性。

ほんの一瞬だけ。

ほんとうに女性の姿だったのだろうか?

船に乗った女性客が写っただけなのか?

しかし左舷には彼ら二人しかいなかった。

確かめようにも

もうイルカはいない。

彼らの耳に

右舷の乗客の歓声が戻って来た。

「お、おじさん、今の、、さっき言ってた「姫」、、なんですか!?」

震える声で男性客が言った。

おじさんは固まったまま動かなかった。

口は半開き。目を見開いたままだった。

 

 

「イルカウォッチング」昼の部は滞り無く終了した。

乗客達は皆満足したせいか

帰りの船内でガイドが無口になっていたことに気付かなかった。

さきほどの男性客も彼の家族と船を降りた。

男性客はガイドのおじさんが気になり

一度だけ振り返った。

おじさんはまだ船にいて

さっきまでいた遠くの海を見ていた。

さきほどのあれは、一体なんだったのか。

結局おじさんからは何も聞けなかった。

男性客は家族に呼ばれ、再び歩き出そうとした。

おじさんから目を離そうとした時

おじさんが海に向かって

「ありがとう…」

と言うのを

彼は確かに耳にした。

 

Bubbling Bow  episode003


 



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